リレーエッセイ
#1 医者の家系
以前日本医事新報で「プライマリケア開業術」という連載対談を担当したことがある。対談の2回目は東京の世田谷区で二代目開業をしながらプライマリケアの研究や教育をしている本会世話人副代表松村眞司先生をゲストに迎えた。
先生は内科医院の長男なので、いつも周りから「後継ぎ」という目で見られるプレッシャーを感じて、ずっとこれに反発していたそうである。そんな松村少年が進学の時期になって、なんとなく「何も取柄がないから医者にでもなるか」という気持ちになって北大医学部に進んだというから世の中は面白い。
ところが、大学で教わる事柄が、父が風邪の患者にやることとあまりにも違うことに疑問を感じ始めた頃、医院の書斎にあった本会創始者永井友二郎先生の名著「医療とことば」を読んで「患者の話をよく聴くことが基本」という教えに感動し、「こういう世界こそこれから追求してみたい」と、結局は松村医院を継ぐことになった。
開業医の子弟で、家で働く親の後姿を見て医者になった人は多く、ぼくも、外科医だった父の消毒薬の匂いを嗅ぎながら、ごく自然に医者になった。
わが家系にも医者が多い。そのルーツとなった伯父矢吹清は、大正時代、京都帝大の外科学教室の黎明期に学位を取った秀才と聞いている。山形市の至誠堂病院から、東北地方初の外科の博士として当時破格の月給1000円で招聘された。県知事の給料が800円だった時代である。やがて昭和8年、山形の中心部に大正モダン様式のコンクリート三階建ての「矢吹外科病院」を建てた。県内はもとより近県からも患者が押し寄せたという。清の長男は三代目院長清一で、その長男清隆が現矢吹病院の院長をしている四代目である。ぼくの名前の「清人」も伯父の一字をもらったのであるから、相当に偉い伯父だったことが分かる。清の弟である父矢吹四郎は東北帝大の外科出身で、伯父亡き後二代目の院長としてこの病院を支えた。
うちの長女は東京の開業医三代目の内科医と結婚し、次女は東京の病院で整形外科専門医として働いている。家内の弟は脳外科医で、その長男の甥もこの春千葉大医学部を卒業した。さらに弟の長男も眼科医である。
家内はときどき身内の医者たちの品定めをしながら
「敦(義弟)や、道隆さん(娘婿)は頭を使っているけど、あなたは、あんまり使っていないみたいね」
と鋭く核心を衝いてくる。
だが、亭主は少しも慌てず
「その通り。いちいち頭を使わなくても済むようになってはじめて一人前」
などと威張っている。